小説『メゾン刻の湯』の感想とあらすじー働かないアリの生きる場所ー




働きアリの法則』を知ってますか?

そうです。実は2割のアリがさぼっているというあれです。

 

僕は最近とても感じることがあります。

インスタグラムを開けば、色々な人のきらびやかな毎日が拡がり、Twitterを開けば誰かの意識の高いツイートが目に入り、Facebookを開けば上の世代の聞きたくもない主張が溢れている。

まるで、頑張れ、努力しろ、上をめざせ、そうやって世界中から言われているようです。

 

何のために頑張るかを考える時間はないけれど、「頑張れ」という声は痛いほどに感じる。

何者になりたいのかということを考える時間はないけれど、「何者かになれ」という声は痛いほどに感じる。

そして、決断するのは『自分』で実行するのも『自分』で、『自己責任』という言葉で突き放される。

そんな世の中はおそらくとっても息苦しい。

 

そんなことを考えている時にこの本と出会いました。

この本の最初の方にこんなセリフがあります。

「僕はさ、8割の働きアリには興味ないの。何にもやる事なんかなくって、てんでダメで、ぶらぶらしているような、2割の怠けアリこそ、こういう場所には必要なんだ。」

今日は、そんな場所が舞台の『メゾン刻の湯』という本のはなしです。


メゾン刻の湯
小野美由紀

どんな話なの?

あんまり書いてしまうと、読むときに面白くなくなると思うので、簡単にあらすじだけ。

 

主人公のマヒコはなぜだか就活をする気にならず、内定のないまま大学を卒業してしまいました。

あてどもなく歩いていて辿り着いたのがここ刻之湯でした。

そこで冒頭のように管理人のアキラという人に、

いいね、君、実にいいよ。僕、君みたいなの大好きさ。

あ、君みたいなのっていうのはさ、わかるよね?てんでダメで、フラフラしていて、将来のこと、何一つ自分で決めらんない、甘ったれのデクノボーってことだよ。

そういうダメなやつが一人くらいいた方が、こういう場所ってのは回るんだ。うん、いいね、実にいい

という風に、そんな言う!?というくらいぼろくそに言われマヒコは気を悪くします。

でも、住むとこも職もないマヒコは仕方がなく刻の湯で居候生活を始めます。

刻の湯には、愛人として生きているハーフの蝶子、事故で片足を失った龍くん(ハンサムでいつもイケている)、育児放棄に会った少年リョータ、なぞに包まれた管理人アキラさんなど、個性あふれる住人が住んでいました。

 

そんな刻の湯では、日々様々な出来事が起こります。

色々な人がいるから起きてしまう出来事を、色々な人がいるからこそできる解決方法で解決していく。

最初は、いやいや住んでいたマヒコも時を重ねるほどに刻の湯での生活に居心地の良さを感じてきます。

しかし、そんな時間は永遠に続かず…

 

という風に、少し気にならせる風のあらすじ紹介を書いてみました。



感想

僕の読んだ感想を、本の場面と合わせて紹介していきます。

数々の名言が飛び出しますので、ティッシュを用意して読み進めることを推奨します。

僕らには沢山のラベルがある

(注:ラベルではありません)

片足を小さい時に交通事故で無くしてしまった龍くんという登場人物のこんなセリフがあります。

『障害者タグ』みたいなの、わかる?付けられんの。それだけで判断されるっていうのはさ、自分に関する、それ以外の部分を、全部丸ごと無視されたような気になるんだ。

僕らには沢山のタグ、顔があります。

そんなことは当たり前で、みんな知っているはずなのに、

「最近の若い人は自分に甘い」とか、

「部活をやってなかったやつは協調性がない」とか、

“若い”とか“部活やってない”とかは、ラベルのひとつでしかないはずなのに、まるでそれがその人のすべてであるように勘違いして、その人を決めつけてしまうことがあります。

人のことなんかラベル一つで分かるわけない、もっと複雑なんだ、しっかり向き合え。

そう感じさせられました。



自分はつくられている

マヒコが刻の湯に慣れてきて、こんなことを思います。

いつのまにか、他の住人たちの凸や凹を埋める形で「自分」というものが作り上げられている。

一人暮らしをしていた時には面倒で仕方なかったゴミ出しや洗濯、皿洗いが、人の分と一緒であれば意外と嫌いではないことに僕は驚いたし、できることならこの暮らしがずっと続けばいい、と思い始めている自分に気づいて愕然としたりもした。~~~

今の僕がバカみたいに追い求めている「確固たる自分」や「やりたいこと」なんてものは本当は存在しないのではないか、とふと思う。

『自分』という人間はこれまでに自分の力でつくってきたのか、周りの人たちによってつくられてきたのか。

なんだか、この文章を読んでわからなくなりました。

本当は今は揺るぎのないと思っている『自分』なんていう存在は、色々なものによってつくられてきていて、これからも周りの形によって変わっていくのかもしれない。

 

そうであるならば、僕らは自分で勝手に決めた『自分はこういう人間』なんてものを気にせず、ゆれゆれのぶれぶれの自分でもいいのかもしれません。

なんだか、許されたような気がしました。



主人公マヒコの希望

主人公マヒコはこの本の最後でこんなセリフを残します。

僕が欲しいのは、他人を叩きのめす力ではない。異質な物と、つながりを持てなくても、理解しあうことはできなくても、寄り添うことをやめないだけの足腰の強さと、感応できるだけの優しさだ。

歳を取った人間の描く希望とは違うかもしれない。

けれど僕たちは、それがあれば生きてゆけるのだ。敏感で柔らかな指先を、他者に向かって伸ばすこと、それが、僕にとっての希望なのだ。

この文章には本当にグッときました。

誰かのことを理解するなんて、難しいし無理なんじゃない?と思う。

わかんねーからって、線引きするのはもうやめたんだ。

これもマヒコの言葉なのですが、僕もこういう姿勢で向き合う人間になりたいと思います。

 

僕には山椒をうまいうまいとうなぎにかけて食べる人の気持ちも、ジェットコースターに乗って「フワッとしたね!」と嬉しそうに言う人の気持ちも、1ミリも理解することが出来ません。

でも、なんで山椒が美味しいのか、なんでフワッとしたいのか聞くことはできるし、知ろうとすることはできる。

一先ずこの文章を書き終えたら、山椒を買ってこようと思います。

 

とても長い文章でしたが、ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。

それでは今日はこの辺で。

 

メゾン刻の湯はこちらから▼

 

 


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